揭秘日本产品卓越品质背后的秘诀
为了解开这个秘密呢,我们今天先来了解一个人物,那就是石田梅岩先生。
石田梅岩
石田梅岩(1685-1744)是"创造日本"的人物之一。他创立的庶民哲学不仅深刻地影响到了日本民族的审美意识、伦理观、生活方式,还决定了日本民族独特的勤劳观念和对商品质量精益求精的执着。石田梅岩培养出了与艺术相同的日本手艺人文化「職人文化」。这正是日本民族工作认真、日本产品质量可靠、赢得世人青睐的秘密。
勤勉の人生修行
石田梅岩(いしだばいがん)は「石門心学(せきもんしんがく)」の始祖(しそ)である。その講釈所(こうしゃくしょ)「心学塾(しんがくじゅく)」は、江戸時代(えどじだい)の後半(こうはん)から明治初期(めいじしょき)まで全国(ぜんこく)にあり、大(おお)きな勢力(せいりょく)を持(も)った精神修養団体(せいしんしゅうようだんたい)だった。もちろん、武士(ぶし)や大名(だいみょう)も参加(さんか)したが、石門心学(せきもんしんがく)を説(と)く清廉(せいれん)で勤勉(きんべん)な精神(せいしん)は圧倒的(あっとうてき)に庶民(しょみん)の中(なか)に広(ひろ)がり、「勤勉(きんべん)と倹約(けんやく)」という町人哲学(ちょうにんてつがく)を生(う)み出(だ)した。
石田梅岩是“石门心学”的始祖。他的讲习所“心学塾”从江户时代的后期直到明治时代初期都遍布全国,是一个具有很大影响的精神休养团体。武士和大名自然都来参加,但他所宣扬的石门心学的清廉、勤奋的精神却在庶民中以压倒性的优势广泛普及,诞生了“勤奋和节约”的町人文学。
石田梅岩(いしだばいがん)が丹波(たんぱ)の国(くに)の農家(のうか)の次男(じなん)だ、数(かぞ)えで十一歳(じゅういちさい)の時(とき)、京都(きょうと)に出(で)て小(ちい)さな呉服屋(ごふくや)の丁稚(でっち)になった。この田舎少年(いなかしょうねん)は華(はな)やかな元禄(げんろく)バブル(ばぶる)景気(けいき)を見(み)る間(ま)もなく、景気(けいき)の陰(かげ)りと共(とも)に小(ちい)さな呉服屋(ごふくや)が倒産(とうさん)してしまった。奉公先(ほうこうさき)の倒産後(とうさんご)も、人足働(ひとそくはたら)きをしながら主人(しゅじん)を養(やしな)っていた。十五歳(じゅうごさい)の時(とき)、父親(ちちおや)に故郷(ふるさと)へ連(つ)れ戻(もど)された。二十三歳(にじゅうさんさい)で再(ふたた)び京都(きょうと)へ黒柳家(くろやなぎけ)という一流(いちりゅう)の呉服屋(ごふくや)に入(はい)り、四十歳(よんじゅうさい)で番頭(ばんとう)になった。奉公(ほうこう)のかたわら、神道(しんとう)、儒教(じゅきょう)、仏教(ぶっきょう)などを学(まな)んでいた。四十五歳(よんじゅうごさい)から引退(いんたい)して京都(きょうと)の自宅(じたく)で心学(しんがく)の塾(じゅく)を開(ひら)いた。いつ何時不況(なんどきふきょう)が来(き)ても生(い)き残(のこ)れるように、勤勉(きんべん)に働(はたら)き、地味(じみ)に暮(く)らし、倹約(けんやく)に努(つと)めよ、と説(と)いた。
石田梅岩是丹波国一农民家的二儿子。在他虚岁十一岁的时候,来到京都成为了一家小服装店的学徒。这个农家少年目睹了繁荣的元禄时代的泡沫经济之后不久,这家小服装店便受到不景气的的影响而倒闭了。打工的服装店倒闭之后,石田梅岩靠着从事搬运工作来养活雇主。十五岁的时候,跟父亲一起回了故乡。二十三岁的时候再次来到京都,进了一家叫黑柳家的一流服装店,四十岁那年当场了掌柜。一边工作,一边学习神道、儒教、佛教等。四十五岁那年辞职,之后便在京都的自家宅子里开设了心学堂。他主张,不景气的经济随时都会出现,为了生存下去,必须勤奋地工作,质朴地生活,努力地节俭。
最初(さいしょ)は、心学塾(しんがくじゅく)に受講生(じゅこうせい)がなかった。彼(かれ)は大通(おおどお)りに向(む)かって通行人(つうこうにん)に自分(じぶん)の主張(しゅちょう)を説明(せつめい)していた。最初(さいしょ)には、大根(だいこん)を片手(かたて)に持(も)った農家(のうか)の人(ひと)がただ人(ひと)に聞(き)いていただけだった、という。十五年間(じゅうごねんかん)の努力(どりょく)で、門人(もんじん)が多(おお)くなって梅岩(ばいがん)の思想(しそう)は、やがて弟子(でし)たちによって全国(ぜんこく)に広(ひろ)められ、石門(せきもん)の講舎(こうしゃ)が各地(かくち)に設立(せつりつ)された。
一开始,心学塾没有一个学生。他就面朝大街,向来往的行人阐述自己的主张。据说,刚开始的那段时日里,只有一位单手拿着萝卜的农民在驻足倾听。经过十五年的努力,门人不断增多,梅岩的思想终于经弟子们的努力,推广到了全国,并在各个地区都开设了石门的讲堂。
講義(こうぎ)の部屋(へや)の中央正面(ちゅうおうしょうめん)の舞台(ぶたい)に先生(せんせい)が座(すわ)り、聴衆(ちょうしゅう)の席(せき)は簾(すだれ)で仕切(しき)りてあり、向(む)こう側(がわ)が男子席(だんしせき)、こちら側(がわ)は女子席(じょしせき)で、先生(せんせい)の顔(かお)が見(み)えるが、男女(だんじょ)は互(たが)いの顔(かお)が見(み)えないようになっている。講義(こうぎ)の内容(ないよう)は勤勉(きんべん)、倹約(けんやく)、知足安分(ちそくあんぶん)である。
先生坐在讲堂中央的高台上,听众席用竹帘隔开,一边是男子席,另一边则是女子席,双方都能看到先生的面孔,但男女之间彼此都看不到对方的脸。讲义的内容就是勤奋、节约、知足安分。
諸行(しょぎょう)すなわち人生修行(じんせいしゅうぎょう)である。人格(じんかく)が立派(りっぱ)であれば生産活動(せいさんかつどう)に勤勉(きんべん)に携(たずさ)わるはずだ。
诸行万物即是人生修行。只要人格高尚,就应该勤奋地从事生产活动。
徳川時代(とくがわじだい)の日本(にほん)は、技術進歩(ぎじゅつしんぽ)が乏(とぼ)しく、土地資源不足(とちしげんぶそく)だが、一生懸命(いっしょうけんめい)の現象(げんしょう)が起(お)こる。細部(さいぶ)まできれいにする競争(きょうそう)が起(お)こる。日本独特(にほんどくとく)の細部重視(さいぶじゅうし)で、着物(きもの)の裏(うら)や仏壇(ぶつだん)の底(そこ)まで凝(こ)るようになった。人格高潔(じんかくこうけつ)な職人(しょくにん)が造(つく)ったものは非常(ひじょう)に丁寧(ていねい)なものだ。逆(ぎゃく)に、粗末(そまつ)な商品(しょうひん)を製造(せいぞう)しているのは人格下劣(じんかくげれつ)なやつだ。
德川时代的日本,虽然缺乏先进的技术,土地资源不足,但却出现了拼命工作的现象。出现了将细微部分都做到尽善尽美的竞争。日本独特的细节重视,使得就连和服的里子和佛龛的底部都要做工精湛。人格高尚的职人所制造出来的东西非常精致。相反,制造粗制滥造的商品的人,都是人格低劣之人。
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